73、土佐塩の道(2) (平成31年1月20日)

 戦後1950年頃に、瀬戸内海から四国に渡るときに沿岸でよく見る光景が塩田であった。 私は当時でも高知県で塩田が数多くあったことは知らなかった。 現在では昔のような塩田はあまり見かけない。 しかし手作りで、高級な塩が何か所かで作られている。 現在では、日常に使っているのは工業塩のようである。 国や地域によっては岩塩として、内陸から取り出す天然の塩もあるようである。 日本各地も同様と思われるが、四国の場合も道路インフラが十分でなく、交通手段や物流が発達してない頃は、内陸に住んでいる方々にとって、沿岸部から塩を取り寄せなければならなかった。内陸の人々にとって、冷蔵庫等もなく、長期保存のためには、塩漬けにすることが欠かせない状況であったと推察できる。
 一例をあげると、天正から慶長の年代(約400年前)には、今の高知の土佐湾に面した、香南市夜須町から吉川町にかけての海岸は一大製塩地で、中心の赤岡では塩市が開かれていた。 この塩を奥地に運ぶための道を「塩の道」といっていたそうである。 塩の生産地と奥地を結ぶ重要な産業道で、塩に限らず海産物や生活物資も運搬され、相互往来の道であった。
今でもその土地の地形や地名により、七浦往還、日浦往還、徳善往還、赤岡往還などとよばれ、
また「塩」「シオタキ」「塩ヶ峯」などの地名も塩と関係している。 当時は主に馬の背に塩や雑貨を積んで往来した関係で、馬と旅人の安全を祈願する「馬頭(めず)観音」が塩の道沿いに祀(まつ)られている。
 現在では、香美市物部町大栃から、香南市赤岡町までの約30キロの区間を「塩の道」と復元整備をしている。 これはほんの一部で、物部町大栃から奥に入り、①別府の四つ足堂峠、②久保の韮生越え、③笹を超えて祖谷(いや)へと、三つの往還が四国山脈を越えて徳島へとつながり、海から山へ、奥地から浜へ、まさしく多くの人の生命と生活を支えた塩の道であった。当時の赤岡町には郡奉行所なども置かれ、政治、経済ともに香美郡の中心をなす地で塩の道は物流とともに、情報(文化面)の大動脈でもあったと考えられる。
 塩の道の時代には、大栃(おおとち)町は単なる通過点にすぎなかった。 一帯は沼地で田園が並び、山の手には4つの池があり、この水が田に引かれていた。1892年(明治25年)頃は中心地に僅か4から5軒の店があって日用品、雑貨、荒物などを売っていたが、1899年(明治32年)道路開通とともに交通の要所となり、物資の集散地として大きな役割を果たすことになる。1992年(大正11年)には町の区画が整理された。1950年(昭和25年)には永瀬ダム建設工事が始まり、多くの人が流入し、大栃の町は大変なにぎわいとなった。 その後時代とともに、この地の役割も変化し、現在ではこの地を歩くと、昔の面影が残る程度である。
 忘れかけているこの地を、塩の道保存会が中心になり、官民共同してこの財産を残そうとしている。 先日もその一部を実際に歩きながら、学習と今後の取組について、その意義や観光資源としての価値を学習したところである。

2019年01月20日